SSAW
2002年6月6日いかにも「俺は脳みそ空っぽさ」とアピールしてるような語彙力さらして
頑張ってと応援する人が嫌い。
共感するって何ですか?
熱、こもってないでしょ?
みていれば分かる。どこか他人行儀な一面。共感していてもフリだけ。
実際あまり関わろうとしてない心理が見え見え。
芸能人で誰かが言ってた、「『頑張って』とただ言う人は嫌い」
確かにネ、言葉にするだけで励まされることはあるよ。
でも、ある程度相手の友達になってるんなら、
もう少し入り込んだ応援するのが友達ってもんじゃない?
マニュアルどおりの言葉を返して、さも応援してるフリして
・・気持ち悪い。
気持ちなんて変わるもの。
それまで応援してたのに、評判を落とすとぱたりと寝返って非難する。
標的は政治家さんが一番多いかな。
その場その場でもっともらしいこと言えば、周りも「あぁ、そうだな」
と共感してくれる。お仲間ごっこに付き合ってくれる。
でも。私には気持ち悪い。
意見を変えるなとか、本音を言い続けろとか、そゆのじゃない。
本筋から微妙にずれてしまった僅か数ミリのずれが、気に入らないのだ。
どうして人を簡単に非難できるんだろう?
確かに欠点はある。あげればきりがない。
誰でも、そう。
誰でも、そう。
誰でも、そうなのに・・。
友達というのは、相手の精神・肉体の一部を、自分の中に取り込むこと。
友達が傷つけられたら、自分も基本的に痛い(マゾなどは別として)
誰かを非難している時点で、その対象者は友達ではない(サド〜以下同文)
赤の他人、或いは敵扱い。
最初はね、友達的な目で見てるのさ、えぇ分かりますとも。
「今度の政治家、みんなから評判いいけど、私は気乗りしないナ」
と言いつつも赤の他人扱いしてないし、敵ともみなしてない。
それが数ヵ月後には
「ほら、言ったとおり。所詮口先だけなんだよね」
酷いときにはまるでゴミ屑扱い。
私はそのズレを感じて、哀しく思います。
「それまではその人の本性が見えてなかったから、白紙の状態で
見てただけ。本性を知って、あぁダメねと思ったから嫌いになったんだよ」
本性って見えるんですか? 本人じゃないのに。
分かった振りして見切りつける口実にしてるだけ。
それに、人の本性は大抵は誰でも汚れたものだよ。
それを承知の上で友達になったりするものなんだから。
みんなの前で簡単に人(または特別親しくない友人)をポイ捨てにしてる
態度の人は嫌い。
これが友達の場合でも、みんなの前でいうべきではないよね。
親しくなった友達なら、場合によっては縁切っても仕方ないとこある。
非難は、相手のことちゃんと知ってるから出来る行為だと思う。
きちんと把握できない立場の人を非難するのは、おかしいと思う。
ニュースを見て、あまりに一方的見解で非難を向ける人は、
私は嫌い。
逆に、あまりたいした理解もないのに理解してるフリして語彙の少なさ
垣間見せながら共感してる人も、私は嫌い。
そういう人たちにはあまり世間の事件の感想を語ってほしくない。
頑張ってと応援する人が嫌い。
共感するって何ですか?
熱、こもってないでしょ?
みていれば分かる。どこか他人行儀な一面。共感していてもフリだけ。
実際あまり関わろうとしてない心理が見え見え。
芸能人で誰かが言ってた、「『頑張って』とただ言う人は嫌い」
確かにネ、言葉にするだけで励まされることはあるよ。
でも、ある程度相手の友達になってるんなら、
もう少し入り込んだ応援するのが友達ってもんじゃない?
マニュアルどおりの言葉を返して、さも応援してるフリして
・・気持ち悪い。
気持ちなんて変わるもの。
それまで応援してたのに、評判を落とすとぱたりと寝返って非難する。
標的は政治家さんが一番多いかな。
その場その場でもっともらしいこと言えば、周りも「あぁ、そうだな」
と共感してくれる。お仲間ごっこに付き合ってくれる。
でも。私には気持ち悪い。
意見を変えるなとか、本音を言い続けろとか、そゆのじゃない。
本筋から微妙にずれてしまった僅か数ミリのずれが、気に入らないのだ。
どうして人を簡単に非難できるんだろう?
確かに欠点はある。あげればきりがない。
誰でも、そう。
誰でも、そう。
誰でも、そうなのに・・。
友達というのは、相手の精神・肉体の一部を、自分の中に取り込むこと。
友達が傷つけられたら、自分も基本的に痛い(マゾなどは別として)
誰かを非難している時点で、その対象者は友達ではない(サド〜以下同文)
赤の他人、或いは敵扱い。
最初はね、友達的な目で見てるのさ、えぇ分かりますとも。
「今度の政治家、みんなから評判いいけど、私は気乗りしないナ」
と言いつつも赤の他人扱いしてないし、敵ともみなしてない。
それが数ヵ月後には
「ほら、言ったとおり。所詮口先だけなんだよね」
酷いときにはまるでゴミ屑扱い。
私はそのズレを感じて、哀しく思います。
「それまではその人の本性が見えてなかったから、白紙の状態で
見てただけ。本性を知って、あぁダメねと思ったから嫌いになったんだよ」
本性って見えるんですか? 本人じゃないのに。
分かった振りして見切りつける口実にしてるだけ。
それに、人の本性は大抵は誰でも汚れたものだよ。
それを承知の上で友達になったりするものなんだから。
みんなの前で簡単に人(または特別親しくない友人)をポイ捨てにしてる
態度の人は嫌い。
これが友達の場合でも、みんなの前でいうべきではないよね。
親しくなった友達なら、場合によっては縁切っても仕方ないとこある。
非難は、相手のことちゃんと知ってるから出来る行為だと思う。
きちんと把握できない立場の人を非難するのは、おかしいと思う。
ニュースを見て、あまりに一方的見解で非難を向ける人は、
私は嫌い。
逆に、あまりたいした理解もないのに理解してるフリして語彙の少なさ
垣間見せながら共感してる人も、私は嫌い。
そういう人たちにはあまり世間の事件の感想を語ってほしくない。
BCDLMNOPSUVWZ
2002年3月25日20個のチェックで調べるストレス度チェックで17項目ついた。
その結果、専門医に診断を受ける必要あり、と。
出たところで、病院を紹介してくれるわけでもなし(当然ネ)
こういうのは占い同様、気軽にやってみろってな代物。
にしても気になって他のストレス度チェックをあたる。
7つ行ったうち安全圏は1つ、やや危険は1つ、残りは要病院行き。
おまけに精神疲労度チェックがあったので受けてみると
全項目に同じチェックが並んだ。
結果を見ずとも重症で要病院行き決定。
正直にチェックしてその結果ぶりです。
SMAPのLET IT BEで、占いなんて怠け者の運命、
なんて歌ってるけど(確か・・)
占い系はその人の華団材料が少ない割に
もっともらしいことを言わないといけない分、
コツが要ります。
不均等にならないよう気をつけないといけない。
12星座は1.2億人のうち1千万人が同じ結果を言われるわけで
血液型だと3千万人が同じ結果を言われます。
布石の置き方には気をつけよう、ってな感じです。
病気の診断は割と背景にしっかりした布石があります。
精神的疾患になったところで、ある程度の診断は出来ます。
手軽にネットで診断できちゃう状況で、占いよりかはよく当たってる。
やや危険と出れば、「よし、診てもらおう」ってならなくもない。
だけど精神的疾患は難しいんだよね。重症であればあるほど。
ある程度いっちゃってると、危険って診断が出るんだけど、
実際病院行っても、たいした療法があるわけじゃない場合が多い。
本人が拒絶反応持ってると、虚勢はったりして。
ダメなものはダメなんだよな、だな。
仕事辞めなきゃ危険ってところまで来ちゃってても
勝手に投了を示唆しちゃいかんのです。
結果がまずかろうなと分かっても、言ってしまうと牙を向かれたりします。
本人が投了する意思を自分から持たなければダメ。
囲碁や将棋は、人間が行うから逆転劇が生まれます。
病は気から、と言われるように、気の持ちようで状態が変わるものが
あります。むしろそれに期待して促す治療もあります。
自己完結しちゃいましょ、ってことですかね。
やばいよ、と言われてもなんとかなる自分のしぶとさを信じたい。
〜〜〜
神の一手、ってのがあるんですね。
先手必勝か後手必勝か、引き分け必至の手が絶対に存在します。
囲碁でも、将棋でも、チェスでも、リバースでも。
3×3の升目に黒、白、黒、・・・、と置いて、先に3つ並べたほうが勝ち、
という○×ゲーム(うちらはそう呼んでた)では、
両者が最善手を打てば、引き分け必至です。
先手が最善手の真ん中に打てば、後手は隅に置いて、あとは受け続ければ
引き分けにできます。もし隅以外の辺に置けば、先手必勝です。
9ますを埋めるだけのこのゲームにしても、
第一手目の打つ最善手(この場合1つのみ)により
第二手の打つ最善手が複数(この場合4つ)出て、
そこから後の最善手はどれがどれとも言えません。
引き分け必至だからこそ、最善手が分からないのです。
もし囲碁が引き分け必至のものであるなら、
引き分け必至に至るまでの全シナリオは、到底データとして
記録することは出来ないでしょう。
もし先手必勝の手或いは後手必勝の手が存在しているならば、
やはりそこに至るまでの手順は数多く枝分かれし、到底人間が
覚えられる数ではないはずです。
人間を相手にするからこそ、この手しかない、という手は存在し得なくなります。
一人では極められないから、永久に続けられるんですね。
その結果、専門医に診断を受ける必要あり、と。
出たところで、病院を紹介してくれるわけでもなし(当然ネ)
こういうのは占い同様、気軽にやってみろってな代物。
にしても気になって他のストレス度チェックをあたる。
7つ行ったうち安全圏は1つ、やや危険は1つ、残りは要病院行き。
おまけに精神疲労度チェックがあったので受けてみると
全項目に同じチェックが並んだ。
結果を見ずとも重症で要病院行き決定。
正直にチェックしてその結果ぶりです。
SMAPのLET IT BEで、占いなんて怠け者の運命、
なんて歌ってるけど(確か・・)
占い系はその人の華団材料が少ない割に
もっともらしいことを言わないといけない分、
コツが要ります。
不均等にならないよう気をつけないといけない。
12星座は1.2億人のうち1千万人が同じ結果を言われるわけで
血液型だと3千万人が同じ結果を言われます。
布石の置き方には気をつけよう、ってな感じです。
病気の診断は割と背景にしっかりした布石があります。
精神的疾患になったところで、ある程度の診断は出来ます。
手軽にネットで診断できちゃう状況で、占いよりかはよく当たってる。
やや危険と出れば、「よし、診てもらおう」ってならなくもない。
だけど精神的疾患は難しいんだよね。重症であればあるほど。
ある程度いっちゃってると、危険って診断が出るんだけど、
実際病院行っても、たいした療法があるわけじゃない場合が多い。
本人が拒絶反応持ってると、虚勢はったりして。
ダメなものはダメなんだよな、だな。
仕事辞めなきゃ危険ってところまで来ちゃってても
勝手に投了を示唆しちゃいかんのです。
結果がまずかろうなと分かっても、言ってしまうと牙を向かれたりします。
本人が投了する意思を自分から持たなければダメ。
囲碁や将棋は、人間が行うから逆転劇が生まれます。
病は気から、と言われるように、気の持ちようで状態が変わるものが
あります。むしろそれに期待して促す治療もあります。
自己完結しちゃいましょ、ってことですかね。
やばいよ、と言われてもなんとかなる自分のしぶとさを信じたい。
〜〜〜
神の一手、ってのがあるんですね。
先手必勝か後手必勝か、引き分け必至の手が絶対に存在します。
囲碁でも、将棋でも、チェスでも、リバースでも。
3×3の升目に黒、白、黒、・・・、と置いて、先に3つ並べたほうが勝ち、
という○×ゲーム(うちらはそう呼んでた)では、
両者が最善手を打てば、引き分け必至です。
先手が最善手の真ん中に打てば、後手は隅に置いて、あとは受け続ければ
引き分けにできます。もし隅以外の辺に置けば、先手必勝です。
9ますを埋めるだけのこのゲームにしても、
第一手目の打つ最善手(この場合1つのみ)により
第二手の打つ最善手が複数(この場合4つ)出て、
そこから後の最善手はどれがどれとも言えません。
引き分け必至だからこそ、最善手が分からないのです。
もし囲碁が引き分け必至のものであるなら、
引き分け必至に至るまでの全シナリオは、到底データとして
記録することは出来ないでしょう。
もし先手必勝の手或いは後手必勝の手が存在しているならば、
やはりそこに至るまでの手順は数多く枝分かれし、到底人間が
覚えられる数ではないはずです。
人間を相手にするからこそ、この手しかない、という手は存在し得なくなります。
一人では極められないから、永久に続けられるんですね。
NZQR
2002年2月21日多重人格の主人公が、或る殺人事件に遭遇して、
もしかしたら自分が犯人なんじゃないかと思いを巡らせながら
親しい友達と事件を追っていく話があってね、
いろんな怪しい人物は浮かび上がりはするけれど
どれも決定打に欠けている。
やはり自分が犯人なのかもしれないと思い始めていた頃、
一緒に行動していた友達にある疑問を抱く。
そしてある衝撃の推論に達する。
犯人は複数犯でしかも、その友達を筆頭とするグループでないかと。
そのグループは今まで注意人物だと指摘してた人たち。
そして主人公はその推理をまとめて文書としてフロッピーに保存する。
しかし事件を一緒に追っていたその友達は、
主人公を犯人たらしめるための状況を完全に揃え終えて
主人公を警察に捕まえさせてしまう。
フロッピーも処分してしまいこれで完全犯罪となった。
そう思って安心して日々を過ごして1ヵ月後、警察が来て逮捕状を見せられる。
実は推理を書いた文書は主人公によってネットの掲示板に掲載されていて、
それを見た第三者たちが、その友達と注意人物たちの接点を
根も葉もない理屈で繋げて―中には事実もあったが―その掲示板を
コピーした紙を警察に送りつけた不定人物のお陰で
事件が洗いなおされて真実が分かった、という話。
そんな話を空想してみたよ。
もしかしたら自分が犯人なんじゃないかと思いを巡らせながら
親しい友達と事件を追っていく話があってね、
いろんな怪しい人物は浮かび上がりはするけれど
どれも決定打に欠けている。
やはり自分が犯人なのかもしれないと思い始めていた頃、
一緒に行動していた友達にある疑問を抱く。
そしてある衝撃の推論に達する。
犯人は複数犯でしかも、その友達を筆頭とするグループでないかと。
そのグループは今まで注意人物だと指摘してた人たち。
そして主人公はその推理をまとめて文書としてフロッピーに保存する。
しかし事件を一緒に追っていたその友達は、
主人公を犯人たらしめるための状況を完全に揃え終えて
主人公を警察に捕まえさせてしまう。
フロッピーも処分してしまいこれで完全犯罪となった。
そう思って安心して日々を過ごして1ヵ月後、警察が来て逮捕状を見せられる。
実は推理を書いた文書は主人公によってネットの掲示板に掲載されていて、
それを見た第三者たちが、その友達と注意人物たちの接点を
根も葉もない理屈で繋げて―中には事実もあったが―その掲示板を
コピーした紙を警察に送りつけた不定人物のお陰で
事件が洗いなおされて真実が分かった、という話。
そんな話を空想してみたよ。
IVXLCDM
2002年2月20日いじめられるヒトにはいじめられるに足る雰囲気や人柄がある。
所謂パーソナリティーの客観的固定化。
薬や精神治療は、その客観的固定化を打ち崩す目的を持っている。
逆に、その目的を達成させるために、個人の治療に際して
身近に接する人たちに対しても治療を要請することもある。
精神治療を必要とする患者を扱う場合、時として、
その患者本人ではなく、患者に深く交流のある身近な人達に
精神的な問題があることがある。
その場合、精神治療における最も有望な解決方法は
当人の耐性を上げることだけに留まらず、周りの環境の攻撃性を
下げることである。
無論、そのような方法には現実的に難しい。
精神治療における限界はそこにあり、どんなに患者本人の耐性が
上げられようとも、接してる環境云々で効果を剥奪し得るのだ。
【http://plaza15.mbn.or.jp/~report/isyanohonne.html】
日本では医者は患者を商売のネタにしててもマスメディア等に
気付かれない保護膜が大きく備わっている。
だから私欲がてらの処方箋が大体を占めている。
病院は悪質な保険会社と同じ、掛け捨てで、
心の満足を提供している一方で
あくどく金銭をふんだくっている悪質な金取りである。
確かに良心的な医者も居るだろう。そのことまで打ち消す道理はない。
ただ恐らくとして、
今の時勢、大いに増えているダメ教師、
犯罪を犯す教師の割合くらいに、
医者もまた同じ割合ほどにダメ医者が居ると考えても
少しも大げさではないはずだ。
教師も医者も、大学で資格を取得するという共通点があるからだ。
ある教科を教えられる資格を得るには、
単位を充足させ、おもてづらに良心的人物を装えばいい。
教育学部は医学部と違い、偏狭的な人間が少ないので
その分育つ教師はまだ望ましい人物が教師をする割合が
多いかもしれない。
医学部に在籍経験のある人は知ってるだろうが、
教える側の教授は、半分以上が偏った人格の持ち主である。
自分の努力は学会論文などや研究に押しやり、
授業では学生に苦労を押し付け、時には利用さえする。
大学の体制自体が、偏りを助長するような空間なのである。
その空間に長く留まれば留まるほど、教授として長く在籍するほど、
人格が危険因子を伴うようになる。
その毒に汚染されずに立派な医者になってくれる人は大いに有難い。
しかし毒自体を消さない限り、ダメ医者は消えることはない。
太古の昔は万人が医者であった。自分で薬を作り、
多少の病気や怪我は自分で治した。
医者という仕事が確立されてからは、自己防衛機能が低下した。
その結果、本来は自分で解決すべき精神的な事情も、
自分自身だけでは解決できない人間へと退化してしまったのである。
所謂パーソナリティーの客観的固定化。
薬や精神治療は、その客観的固定化を打ち崩す目的を持っている。
逆に、その目的を達成させるために、個人の治療に際して
身近に接する人たちに対しても治療を要請することもある。
精神治療を必要とする患者を扱う場合、時として、
その患者本人ではなく、患者に深く交流のある身近な人達に
精神的な問題があることがある。
その場合、精神治療における最も有望な解決方法は
当人の耐性を上げることだけに留まらず、周りの環境の攻撃性を
下げることである。
無論、そのような方法には現実的に難しい。
精神治療における限界はそこにあり、どんなに患者本人の耐性が
上げられようとも、接してる環境云々で効果を剥奪し得るのだ。
【http://plaza15.mbn.or.jp/~report/isyanohonne.html】
日本では医者は患者を商売のネタにしててもマスメディア等に
気付かれない保護膜が大きく備わっている。
だから私欲がてらの処方箋が大体を占めている。
病院は悪質な保険会社と同じ、掛け捨てで、
心の満足を提供している一方で
あくどく金銭をふんだくっている悪質な金取りである。
確かに良心的な医者も居るだろう。そのことまで打ち消す道理はない。
ただ恐らくとして、
今の時勢、大いに増えているダメ教師、
犯罪を犯す教師の割合くらいに、
医者もまた同じ割合ほどにダメ医者が居ると考えても
少しも大げさではないはずだ。
教師も医者も、大学で資格を取得するという共通点があるからだ。
ある教科を教えられる資格を得るには、
単位を充足させ、おもてづらに良心的人物を装えばいい。
教育学部は医学部と違い、偏狭的な人間が少ないので
その分育つ教師はまだ望ましい人物が教師をする割合が
多いかもしれない。
医学部に在籍経験のある人は知ってるだろうが、
教える側の教授は、半分以上が偏った人格の持ち主である。
自分の努力は学会論文などや研究に押しやり、
授業では学生に苦労を押し付け、時には利用さえする。
大学の体制自体が、偏りを助長するような空間なのである。
その空間に長く留まれば留まるほど、教授として長く在籍するほど、
人格が危険因子を伴うようになる。
その毒に汚染されずに立派な医者になってくれる人は大いに有難い。
しかし毒自体を消さない限り、ダメ医者は消えることはない。
太古の昔は万人が医者であった。自分で薬を作り、
多少の病気や怪我は自分で治した。
医者という仕事が確立されてからは、自己防衛機能が低下した。
その結果、本来は自分で解決すべき精神的な事情も、
自分自身だけでは解決できない人間へと退化してしまったのである。
AFHLMNSX
2002年2月19日勉強になるといくらか感じられるような番組を見ることで
少しは知識が身に付いただろうなと満足顔で過ごす。
大概の場合は左の耳から右の耳へ情報が素通りしていってるのに
そのときだけ得られたことの満足感に酔わされる。
単純な人間は多いもので、目先のことでばかり判断の糧にしている。
政治のことにしても、目先でしかモノが考えられないで
「あれはよくなかったと思います」と深く事情を理解しないで意見を述べるヒトが居る。
メディアは一見して利口そうだが実際は脳みその軽い、
扱いやすいヒトを選んで一般の意見と称して公開してみせる。
メディアは常に視聴者の上手を行くものである。
心理作戦で視聴者を洗脳することが通例であり
メディアの毒に慣れ親しんだ視聴者の一部が単純な人間へと成り代わっていくのも
当然の道理である。
料理番組でもないあるテーマの番組において、
食べ物を食させるシーンを盛り込むことが最近多々にある。
これも狙ってのこと。
番組開始時間の繰り上げ、CM明けの同じシーンの2度出し、
発言の字幕出し、CM前のモザイクかけ、等など
せこい手でひきつけようとする。
あと、今書いたのもそれだが、パクりを流用する方法。
単純にあるのが昔の映像を掘り出したり、外国で放送されたものを使う方法。
アニメの実写化もパクりに含めていいかもしれないが、
これは冒険であり危険がつきまとうのでパクりの部類に
入れないほうがいいかもしれない。
内容的には少ないのに、言い方を変えたりビジュアルで満足感を持たせる方法。
ストックをもたせるために別のものを引っ張り込んで誤魔化すのも
それと似た感じがある。
歌の番組なのに司会者同士の会話のやり取りが混じるとか
昔の映像を使い回すとか、ただ純粋に音楽を聴きたい人には
甚だ鬱陶しい状況が出来上がったりしている。
その一方で、ただ音楽だけを流してくれている番組も現れてはいるのだが・・・。
ヒトはイイトコドリをしたがる。それは普通のことである。
見ていて心地よいと思える時間がまずまず過ごせれば、中身の情報の量など
さして気にならなくなってしまうものだ。その心地よさがたくさん情報を得たと
勘違いさせる。そう勘違いさせるように仕向けているメディアの行為にハマってる。
また、ヒトの記憶にも限度がある。記憶するには記憶したいものを
何度か繰り返し再記憶する必要がある。
ところが、メディアの仕掛けた、同じシーンの2度出しなどの繰り返しの無駄が
ヒトの記憶に干渉してしまう。
CM前に期待させる、CM後に同じシーンでまた期待させる、で結果は?
その結果を、数日後には忘れてしまってたりする。
期待ばかりに意識が取られて、結果がどうだったかを記憶するスペースを
奪われる。これはTVづけになってるヒトにはよくあること。
また、ある特定の有名人物に対しての評価を片面だけ強調したものを
見せられ続けると、自分の意見が偏って定着する恐れがある。
とりわけ、加害者と被害者、という2つの立場で物事が進む場合には
メディアの植え付け自体、加害者=悪、被害者=善、というイメージが
水面下に備わることがある。
一度、加害者=悪、などという意識が固まってしまうと
或いは「なぜ犯人がそのようなことをしたのか、心情が全然分かりませんね」
等と全員一致にコメントされると、
その他の似通った事件においても深い考察なしに善悪で結論づける
早急な判断を行ってしまう。
脳みその軽いヒトへと変えられてしまうのである。
人任せで優柔不断なヒト、自分の考えが1番主義なヒト、それよりかは
へりくつやで少数派につきたがりやのほうが厄介だけど、いい。
本当に知りたい情報があれば、自分で調べるのが一番だ。
ヒトから与えられて満足してるのも悪いわけではないが、
それが一番正しいんだと勘違いしないよう、
欲しいものは、最後は自分で取りに行くのが
脳みそを軽くしない、地道な方法だと言えるだろう。
少しは知識が身に付いただろうなと満足顔で過ごす。
大概の場合は左の耳から右の耳へ情報が素通りしていってるのに
そのときだけ得られたことの満足感に酔わされる。
単純な人間は多いもので、目先のことでばかり判断の糧にしている。
政治のことにしても、目先でしかモノが考えられないで
「あれはよくなかったと思います」と深く事情を理解しないで意見を述べるヒトが居る。
メディアは一見して利口そうだが実際は脳みその軽い、
扱いやすいヒトを選んで一般の意見と称して公開してみせる。
メディアは常に視聴者の上手を行くものである。
心理作戦で視聴者を洗脳することが通例であり
メディアの毒に慣れ親しんだ視聴者の一部が単純な人間へと成り代わっていくのも
当然の道理である。
料理番組でもないあるテーマの番組において、
食べ物を食させるシーンを盛り込むことが最近多々にある。
これも狙ってのこと。
番組開始時間の繰り上げ、CM明けの同じシーンの2度出し、
発言の字幕出し、CM前のモザイクかけ、等など
せこい手でひきつけようとする。
あと、今書いたのもそれだが、パクりを流用する方法。
単純にあるのが昔の映像を掘り出したり、外国で放送されたものを使う方法。
アニメの実写化もパクりに含めていいかもしれないが、
これは冒険であり危険がつきまとうのでパクりの部類に
入れないほうがいいかもしれない。
内容的には少ないのに、言い方を変えたりビジュアルで満足感を持たせる方法。
ストックをもたせるために別のものを引っ張り込んで誤魔化すのも
それと似た感じがある。
歌の番組なのに司会者同士の会話のやり取りが混じるとか
昔の映像を使い回すとか、ただ純粋に音楽を聴きたい人には
甚だ鬱陶しい状況が出来上がったりしている。
その一方で、ただ音楽だけを流してくれている番組も現れてはいるのだが・・・。
ヒトはイイトコドリをしたがる。それは普通のことである。
見ていて心地よいと思える時間がまずまず過ごせれば、中身の情報の量など
さして気にならなくなってしまうものだ。その心地よさがたくさん情報を得たと
勘違いさせる。そう勘違いさせるように仕向けているメディアの行為にハマってる。
また、ヒトの記憶にも限度がある。記憶するには記憶したいものを
何度か繰り返し再記憶する必要がある。
ところが、メディアの仕掛けた、同じシーンの2度出しなどの繰り返しの無駄が
ヒトの記憶に干渉してしまう。
CM前に期待させる、CM後に同じシーンでまた期待させる、で結果は?
その結果を、数日後には忘れてしまってたりする。
期待ばかりに意識が取られて、結果がどうだったかを記憶するスペースを
奪われる。これはTVづけになってるヒトにはよくあること。
また、ある特定の有名人物に対しての評価を片面だけ強調したものを
見せられ続けると、自分の意見が偏って定着する恐れがある。
とりわけ、加害者と被害者、という2つの立場で物事が進む場合には
メディアの植え付け自体、加害者=悪、被害者=善、というイメージが
水面下に備わることがある。
一度、加害者=悪、などという意識が固まってしまうと
或いは「なぜ犯人がそのようなことをしたのか、心情が全然分かりませんね」
等と全員一致にコメントされると、
その他の似通った事件においても深い考察なしに善悪で結論づける
早急な判断を行ってしまう。
脳みその軽いヒトへと変えられてしまうのである。
人任せで優柔不断なヒト、自分の考えが1番主義なヒト、それよりかは
へりくつやで少数派につきたがりやのほうが厄介だけど、いい。
本当に知りたい情報があれば、自分で調べるのが一番だ。
ヒトから与えられて満足してるのも悪いわけではないが、
それが一番正しいんだと勘違いしないよう、
欲しいものは、最後は自分で取りに行くのが
脳みそを軽くしない、地道な方法だと言えるだろう。